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B・「え、あのダークナイトライジングの感想? 童貞が好きそうな映画よね、そういえば」
A・「そーよねー、ちょっとモテなくてルックスキモいからってフリークスと自分を重ねあわせちゃったりして学校のトイレにホワイソーシリアスって油性ペンで書いちゃったりして遠まわしにフリークスから一番遠い感情を満たしちゃうタイプよねー」
B・「わかるわー。学校の部室とかでマジキチ呼ばわりされて実はキモがられているだけなのになんか承認欲求を満たされたような錯覚抱いちゃうんでしょう? こわいわねー」
A・「ウチも気を付けないと」
うるせえ!!!!! 死ね!!!!
というわけで童貞の管理人です。
ジョーカーという稀代の童貞のF難易度の公開オナニーを描いた前作「ダークナイト」ではノーランさんのほとばしる童貞もとい非モテ魂がカリ首からあふれ出しスクリーンにこれでもか、これでもか、という怨嗟にも似たレヴェルで刻みつけられていたわけですが、今回はふつーにハリウッドしてたのでおいらはといえば映画館でコーラ飲みながら「オメデトウ坊や、童貞を捨てたな」とビスケットオリバの真似をしながらどこかさみしそうに半ばやけになりながらポップコーンをむさぼっていましたとさ。
まあね……バートンですらモデルの恋人といちゃいちゃできる世の中ですからね……ええ……まあ……寂しいけど……ノーランとは笑ってさよならします……振り返っちゃだめだよ……
いや、別にノーランがモノホンの童貞とかそういうことを指しているわけではなく、映画、というものに対する一種強迫観念のような何かが少なくとも映画を観ている中ではあんまり感じられなかったので、まあ確かにヒットーメーカー童貞捨ててもう二年くらい経ちますし、このくらいの作品を量産してくれるのなら願ったりかなったりですよね、とほほえましく思っていたりもします。なんかホラ、ジマーと相性がいい感じのね。
やっぱりスタジアムの爆破のシーンとかベインの街の乗っ取りとか乗っ取られた街の市民の暴徒化とかはダークナイトの系譜に連なるシリーズとしてふさわしいものに仕上がっているとは思うんですが……まあ僕は「ダークナイト」クラスだったのはスタジアム爆破くらいだと思います。いや、マジマジ。ぶっちゃけ前作のヒース・レジャーがいけないんですけど、あいつ出るだけでもうどんなカット撮っても名カットになるじゃないですか。太刀打ちなんてできませんよ。
あ、これから思いっきりぶっ叩きますけど、映画は面白かったとは思います。
でもぶっ叩きますのであしからず。
ここから先はネタバレあり
僕らはジョーカーを失った世界に生きている。
ファイブカードでの逆転は、だからない。
ジョーカーはいないんだ、いないんだ、と言い聞かせるように毎日仕事をして、ニュースを付けるとリーマン・ブラザーズが崩壊していた。アメリカの政府はアメリカの金融機関に莫大な公的資金を注入して、ならず者の金融会社が息を吹き返す。憤る市民がウォール街をオキュパイして、僕は今日もローソンのコンビニおにぎりで命をつなぐ。地震があったようで、コンビニのレジにはまだ募金箱が陣取っているけれど、別に人生に波風は立たない。
万事これでいいんだ、というつぶやきをツイッターに乗せて、今日もまどろむ。
久しぶりにノーランの映画を観たら、なんかジョーカーに似たやつが立ち回っていた。
どうも凶悪な面で、ジョーカーより強そうで(バットマンをボコボコにのしちゃうし)、ジョーカーよりブチ切れてて(なんといっても水素爆弾を使ったり、街を意図的に無法状態にするのだから)、僕らの魂を僕らの人生自体からほんの少しだけ引きはがしてくれる、そんなジョーカーのような存在に思えてくる。
だけど、そうではなかった。
そういうおはなし。
そもそも「立ち上がれ市民!」って、それお前日本で最近ロートルどもが立ち上げたクソ政党の「立ち上がれ日本」と何が違うんだよボケ。つーか核爆弾と強靭な肉体と巧みなる知略に優秀で信頼のおけるな部下を使っておいて、やることが共産主義のレプリカを模造することという時点で僕らの眼は急に覚醒から人生の微睡に落ち込んでいく。
ああ、違ったのか。
ベイン――――彼もまた、微睡の住人だ。
バットマンは偉そうで自己中で悪趣味でそのくせ女一人手に出来ない雑魚だけど、そっちの方がいくぶんましに思えるくらいの矮小な生き物にベインがなってしまったのは心苦しい。
どこでどう間違ってしまったのか、と天を仰げど、浮かんでいるのはカッチョエエバットマンのマークだけだ。
ベインの背中は大きかった。ベインはやっぱり強いし頭いいしそのくせワルいしで、これ以上ない強敵に思えた。ジョーカーも強かったけど、ケンカではバットマンにかなわなかったし、じゃあベインの方が強いよね、という論理を当たり前に飲み込んでしまう僕らは、正しいと思う。
そして、酷くつまらない。
ジョーカーがかっこよかったのは、あんなに軽薄で考えなしでケンカだってバットマンにメタクソにやられるのに、バットマンを凌駕するあふれんばかりの狂気を振りまいていたからだ。僕だってジョーカーみたいに友達少ないし喧嘩強くないし女子にモテないし貧乏だけど、バットマンみたいな顔が広くて喧嘩つよくてモテモテの金持ちを相手になんとか戦えるんじゃないか、と勘違いできてしまうようなその狂気が、僕らが、いや、少なくとも僕が、求めていたものだった。
弱いのに強いのが勝って楽しいか?
楽しい、とジョーカーは答えるだろう。そしてそのあとで、哂ってこう付け足すはずだ。
「弱いのと強いの、両方負けるのが最高に楽しい」
さてベインである。ベインの強さはべつにジョーカーのような魅力はないけれど、それならそれで「強さ」そのものが彼であればいい。振りきれて強い、ということは、振りきれて弱いのと同じくらい格好いいのだから。
だけどそんな期待も砕け散った。
ベインは別に牢獄を脱出した伝説、唯一の奇跡ではなかった。ただの親切なオッチャン――――どれだけかっこよくいってみてもせいぜい「善きサマリア人」だった。しかもブ男で、得体のしれぬ、だけどよく見るとしょっぱいマスクだけの男だ。彼はフリークスかどうかすら怪しい。なぜなら、その行動理念は至って人間のそれであったからだ――――それは、愛という陳腐な動機だった。
だって、愛って、愛のために戦うって。お前北斗の拳じゃねえんだぞ。哀しみは勝手に一人で背負ってろよ。何がラーズ・アル・グールだっつの、何が影の同盟だっつうの。てめえただの非モテブサイクじゃねえかよ。
結局、彼の行動理念―――劇中ではベインの強さの基底にある「信念」と語られていた―――は、彼が恋する娘のファザコンから起因したヒステリックな復讐劇にとって変わられてしまう。ここまで来ると彼に対してひきつった笑いしか浮かんでこないが、さらに情けないことに、彼はブルース・ウェインによってその愛する女を寝取られてしまうという体たらくだ。しかもウェインの本命はキャットウーマンなので、いわば腰かけセックスフレンド。かたやチューもしてもらえない非モテぶちゃいくアラフィフメンという審判の喇叭が四方世界に鳴り渡るような光景。
なんなんだこれわ。
僕は、木戸賃はらって鏡を見に来たような気分になった。
狂気も持たず、地下牢を脱出したわけでもなく、自分の意思を持っているわけでもない指示待ち人間。自分のことを指示されているような気がして、そして、自分がベインならせいぜいベインと同じようなことしかできないよな、ジョーカーみたいなカッコイイ世界は作れないよな、と否応なしに自覚させられるものがたり。
ベインの圧倒的強さ=謎がブルース・ウェインの人生の恢復に従ってはぎ取られていくそのたびに、心なしか彼の背中は小さくなっていく。それが、哀しい、ただただ哀しい、むしろ情けないくらいの光景に思えてならない。
それは僕らが映画を見るときくらい忘れてしまいたい僕らの一側面であるとも、思う。
おおかみこどもの雨と雪の感想です。
久しぶりに物を書く時間と気力とベクトルが合致したので、レビューを書きたいと思う所存です。
で、読んで字のごとく「おおかみこどもの雨と雪」を見に行ってきました。池袋HUMAXでのレイトショーだったのですが、池袋という立地のせいなのかクソ大勢のカップルとサブカル野郎が雲霞のごとく押し寄せてきていました。とりあえず油そば食ってて上映時間を逃しそうになった俺は何とか前列二番目という
で、両隣はアベックとカップルですよ。ファック。ブル嫉妬。こいつらに挟まれてこんな映画観なきゃいかんとはおいらの御先祖様は何をやらかしたのでしょうかねヤレヤレ(血涙)と嘆息しながら映画を見てきました。途中であまりの精神的なトラブルのせいでタバコのフィルタを口にくわえていたのは秘密です。
とりあえず、キャスト?
とはいっても監督と脚本くらいしか語ることがないですね。
監督は『時かけ』『サマーウォーズ』の細田守監督。さわやかな鬱を喪男に届けてくれる喪男キラーですね。サマウォでも半殺しにされましたが、今回は脚本のせいで四分の三くらい殺されました。
脚本は奥寺差佐渡子で、彼女の脚本で『サマウォ』『時かけ』が当たったあたり、もう細田監督と二人三脚な感じなんですかね。どうなんですかね。とりあえず細田監督はこの映画のためにあたらしくスタジオ地図というスタジオを立ち上げたようで、CGとかの使い方に苦労したそうです。本人いわく、「アニメの記号というものをいったん捨てる必要があった」とか。あんまり僕はよくわかんなかったので、アニメにくわしいひと、よろしくお願いします。
ここから下はネタバレ
狼少年の話から読み取るべき教訓は一つで、「村の連中はオオカミ少年をしつけるべきだった」ということです。狼少年のような人間を放っていくこと、つまりは人間の人間としての社会性を身に着けていない人間を社会で野放しにしておくことは非常に危険です。そのような獣のような存在は、彼に更生の可能性があるべきだということが確認される以上は排除されなくてはならないのです。排除とはつまり、投獄、入院、あるいは日本では死刑を指します。
人間同士が社会関係を作れるようになるのはある意味不自然なことです。ですが、その不自然は人間にとって不可欠なものであり、基本的に教育、という社会的な学習をはぐくめる場での獣の部分の矯正が不可欠なのです――――と、少なくともぼくは考えます。
ええ、そうです。これはパターナリズムです。
はいそこの顔しかめてる人ちょっと待ってください。パターナリズムとか確かにダサいしウザいしリベラルの人から言わせれば許しがたいし左翼からみたらもしかしたら「家父長制の復権」とか真っ赤な顔して口角挙げてきゅうだんされそうですが、世の中には少なからずまだパターナリズムの存在する意義はあるのではないでしょうか。基本的には僕もリベラルを自負しているのですが、今回のように『母性』をテーマにした作品でそれが意図的に排除されているのはどうなのでしょうか、と僕は問いかけます。
具体的にはおかあちゃんが雨くんを手放してオオカミとして生きることを認め、「しっかり生きて」とエールを送るラストシーンですが、あれってつまり子育てのブン投げといえなくはないですか? 母性という神性を体現していたおかあちゃん・花さんですが、そこから意図的にパターナリズムが排除されていたことについては疑問が頭を離れません。
本当のとこ、どうなんですかね?
それでは検証と行きましょう。
(1)花さんの母性
口ぐちにネットの感想を拾うと出てくるこの映画の感想としては、「花さんの母性がすごい」「男から見た最高のお母さんのイメージ像」「母性が強すぎてちょっと不自然」というコメントがいくつも見当たります。ソースはめんどいので自分で調べてください、とブン投げときます。
とりあえず彼女の母性に関してはせっかく奨学金とバイト掛け持ちで苦労して通っていた一橋大学をあっさりやめて田舎に引っこんじゃいます。はい。かなりアレですね。まあこのお話にはいろいろといいたいことがあるのですが、とりあえずこの検証が終わってからまた別に書き足すのではないでしょうか。彼女の母性はとりあえず、すごい、ということで落ち着けておきます(ある意味、花さんのその驚くべき主体性のなさ、というのがむしろ注目されるべきではありますが)
(2)パターナリズムの排除
えー、さてさて、ではこちらを検証していきます。
とりあえず僕としては、愛するおとうちゃんがオオカミになっちゃったことで死んだというのに「オオカミになるか人間になるかは選ばせてやりたい」って言っているおかあちゃんには「お前マジで言ってんの?」とドツ来たくなることしきりでして、ふーん、そうやってリベラル気取りなんですかー、と鼻白みました。まあ社会学部だからしゃあねえか。
花さん、あんたおとうちゃんの話聞いてた? おとうちゃんは雪が生まれたときに「学校の先生でも、パン屋でも、好きな仕事をさせてあげたい」って真面目に言ってたの覚えてなかったんですか? そのなかにオオカミは含まれてませんでしたよね?
どうしてって、どうやったってオオカミでは幸せに対して遠いからです。現代日本でオオカミになることをえらぶことは、生半可なことではありません。オオカミはただの野生動物ではなく、もはや絶滅した種なのですから。悠々自適に自然で死ぬまでハンティングライフ、みたいなことになるはず有りません。ちらとでも人間に目撃されれば猟友会が研究サンプル目当ての大学教員と一緒になって狩りに来ます。実質的に、日本でオオカミとしては暮らせないことくらいすぐわかるはずです。そして、おとうちゃんがオオカミの部分にどれだけ苦しんでいたか(金銭的にも、精神的にも)わからないではなかったはずなのに、その姿勢は駄目でしょうよ。
人間の社会に無理やり適応させることは悪だとおっしゃる?
ならばこう返しましょう。「じゃあ獣としてわが子を育てるなら、ちゃんと動物園にブチ込むんですよね?」そして、それ以上に、「獣を選択させる余地を残すのなら、あなたも半分は獣として生きるべきだ」
勿論これらの提案はただの反論であり、このようなことは許されるべきではありません。人間のこどもは――――それがたとえ半分獣のようなこどもだとしても――――人間として育てられなくてはならないのです。
雨君のように学校をさぼりがちな子供は、ひっぱたいてでも学校に行かせるか、それがダメならほかの学校へ行かせる、それもだめなら何とかして外部の人間との接点を作らなくてはいけません。雨君がオオカミの生を選んでしまったのはひとえにおかあちゃん・花さんの手落ちであり、いうなれば育児失敗、というやつです。
教育とは人間が人間を形成していく作業である以上、それは当然の帰結といえるのではないでしょうか。
(3)では花さんはどうすればよかったのでしょうか
とりあえず家族計画をちゃんと立てて、少なくとも大学卒業をするまでは子供を作るのを避けるべき、という点が一つ。おとうちゃんがオオカミのごとくに中だし中だしとせがんできても、「それじゃゴムつけよっか」と冷徹に言い放つべきでした。
では、子供が生まれておとうちゃんが死んだあとは?
そもそも「育てる」――――つまりは自らのコントロール下に子供を置いて人間として成長させる、の略称ですが――――という行為をする以上、オオカミとして生きさせることは考慮に入れてはなりません。よって田舎なんてとんでもない。手がかからなくなったらとっとと学校を卒業して適当な会社に勤めるシングルマザーになるべきでした。お金が足りないなら寡婦年金と生活保護で補いましょう。それでも足りない、ということはよほどのことがない限りあり得ないはずです。
それでも児童相談所やらの眼がうっとうしくてやってられないときには、とっとと東南アジアあたりのカネがかからない海外にとんずらしましょう。東南アジアなら仕事はそこそこあるし、物価もバカ安いうえ余計な追及を受けずに済みます。よかったね!
まーこんな感じですか。(3)についてはかなり与太入ってますが、結構ベストな気はします。
何につけても偽善者が跳梁跋扈しているお話だったのですが、まあ観ている間はカップル全滅しろ、とか思っててあんまり気にならなかったのが幸いでしたか。
ここで俺の怒りのツイート集を最後にさらして終わりにしたいと思います。
以下ツイート集
(1)好奇心猫を殺すということばがあるが、それに習えば偽善人を狂わす、といったといえるだろう。この映画は、「まあお話だし」ですまないレベルの偽善の集合でできているのではないか。僕はそうかんがえはじめていた。
(2)というわけでこんな夜はおいらの怒りの裁きを諸々のキャラに喰らわせる夜にする。一人目はてめーだおおかみおとこ。前でろや。テメーなに貧乏大学生に種付けせっくしゅしとるんじゃボケ。はあ?同意の上?ちゃんと正体バラした?だからなんだよ。何が「俺が…怖い?」だ。怖いに決まってんだろ。
(3)花の動揺につけ込みせっくしゅした貴様には準強制わいせつの疑いがかけられていますので、はやく出頭してくださいね。あと、狼の本能丸出しでドジ踏んで死んじゃうとか、文字通り犬死にですよね。結婚という人間の制度で首輪付けられた以上、家族に対して人として責任を取らない辺り卑怯ですね。
(4)オオカミの論理で狩りに出掛けて死んだのはむしろ当然で、人間として婚姻関係を結んだ以上は人間である必要がある。この社会では獣は排除される必要があるか、或いは教育によって獣を矯正されるかの二択と言えるでしょう。そうしない結果花さんと子どもに何が起きたのかはいうまでもありません。
(5)劇中でショタ全開の雨くんが「なんでおおかみは嫌われるのん?」とお母さんに尋いていましたが、まさに狼をメタファー像にされる様なお前の父親のような人間がいるから、と答えるべきだったのです。「だから雨、お前は決して狼になってはいけないよ」と続けるべきだった。
(6)さて次はお口直しに村の連中を軽く糾弾してみる。まず爺連中、お前ら越してきたのが40まわりのおばちゃんだったらそんなに働いたか?とすこしジャブ。まあこの辺は妄言に近いんで無視して結構だが。
……なんで俺はこんなに起こっているんだろうか?
やたらと評判のヨロシイので借りてきたグラン・トリノを眠い目をこすりつつ今さっき観終わりました。本来ならイーグル・アイの感想を先に書かねばならんのだろうが……いや、なんかいい映画だったんでこっちを先に書こうと思います。
主演/監督はクリント・イーストウッド。この脚本を見て素直に「演じてみたい」と思えたというその心意気やよし、といったところでしょうか? でもこの映画で演技をするのは最後になるそうなので(まあ当時78歳だし)残念です。で、ほかのキャストは基本的にあんましメジャーじゃないところを引っ張ってきているそうで、モン族のキャストは全員オーディションらしいです。ふーむ。そんなつっぱったことをしてるから(?)アカデミー賞ノミネートしてもらえなかったんですかねえ。素直にアジア人ならマシ・オカとかルーシー・リューとかつかってたらもしかしたら・・・・・いや、あいつらがこの映画に出てきたらイヤだなあ・・・・・一瞬床屋のイタリア系がデニーロさんでもいいかと思ったけどそんな出てこないしなあ・・・・・つーかイーストウッドだけでいいか、うん。(納得) まああの年はベンジャミン・バトンはちゃんと賞もらってるしね、仕方ないね。
映画として、というより娯楽として無駄がないのがわかります。余裕を十分に持たせたうえで無駄をそぎ落としていくというこのいぶし銀の技には本当に頭が下がる。なんだかんだで笑いあり涙ありの良作に仕上がっています。最後にはイーストウッドさんの歌まで入るし。
で、基本的には失われたアメリカに対するリスペクトというか執念というものが煮詰まってます。きっとアメリカ人は(WASPで大人は特に)この映画を観て感じ入るものがあるのではないでしょうか。俺はといえばよぼよぼしながら一から十まで銃をぶん回すイーストウッドさんを見て「ウワー銃社会マジコエーつーかイーストウッドさんの顔もこええさすがアメリカ」ってな感じで大爆笑してました。もうなんていうか人生に倦み始めている人間が銃を持っていちいち人を脅しつけて事件を解決するのはどうかと思っちゃって(笑)。やってることが半ば自爆テロとかわってないという。いや、まあこれはアニメキャラとかによくあるツンデレの亜種もとい源流みたいなものですから気にしちゃダメですね。
失われたアメリカ。
それはマッスルカーと呼ばれるでかいアメ車だったり丁寧に手入れされた一軒家だったり、バーでかわすアメリカンジョークだった。それらはすでに失われた。アメ車は日本車にシェアを奪われていき、街はろくすっぽ家の手入れもしないアジア人ばかりになった。特に主人公のウォルトはフォードの社員だったのに対して息子はトヨタのセールスマンというあたりがもう泣けてくるくらい情けない。ショボい。そんななか、ウォルトだけがさびれたデトロイトに住み続け、クラシック・カーであるグラン・トリノ’72に乗り続ける。失われたアメリカにすがり続ける。僕に言わせれば失うまでそこにアメリカという幻想を持ち続けられたこと自体幸福なことだとは思うけど。そして唾を吐き、ビールを開け、人種ネタでアイリッシュから黒人までののしり続ける。まさに型から形成圧縮したようなオールド・ホワイト・アメリカン。これ以上損なわれたアメリカを表現するのに適したキャラクターはないだろう。しかも戦争経験者だ。
とにかく、アメリカは損なわれた。僕がおっと思ったのは、肉体労働系だけではなく、ウォルトのかかりつけ医もいつの間にかアジア系になっているという描写だった。あ、そうか、もうインテリ層もアジア系なんだ、とあっけらかんと描写しきるかんじがすごい好きだった。たいしたことないシーンなんだけどね。
(ここから先ネタバレあり)
最後のウォルトがギャングに乗り込むシーン、あれってモロ西部劇だよなあ、と思ってみてました。
最後の決戦の前に知り合いに犬を預け、スーツをおろし(もちろんブラックスーツ)、髪をきる(しかも余計に金を払ってひげまで当ててもらう)なんて、それってワイルド・バンチでメキシコ軍に荒くれどもたちがカチコミをかける前に女を抱くのと一緒だよ、と思った。死にゆく男、というモティーフは、まさに失われゆくアメリカの軌跡と重なっていく。
つかれたので今日はここまで。
こんな映画があるなら、と僕は思う。
こんな映画があるなら、僕たちは多少なりとも長生きをする意味があるんじゃないか。
というポエムかなんだかわからねえ文章をつらつら綴りましたが、ここからは内容です。監督はクリストファー・ノーラン。音に聞こえたハリウッド期待のホープ。俺の中での彼とフィンチャーが占める割合が年々肥大していくのでどうにかしてください。「メメント」「インセプション」は少なくとも脚本のキチガイっぷり(作りこみが入れ子式になってたりする)が半端ないですし、その点ではフィンチャーよりも好きなのかな?まあフィンチャーは「ゲーム」という脚本がありますし、そこはいいか。
主演はクリスチャン・ベイル。代表作はぶっちゃけコレというよりもガンカタやってる「リベリオン」のほうが印象に残るんじゃないでしょうか。まああの作品ダークナイトと違って二週間くらいしか日本でやってなかったという悲しい過去を背負っているらしいですが。デ・ニーロ式の役作りをするということなんだけど、なんかこの映画ぶっちゃけ主人公が目立たないような構造になってるので地味です。残念。この人のキチガイみたいな役作りが見たければ「マシニスト」を見といてください。そのあとこのブログにある俺のレビューを見てくれればなお幸いです。ジョーカー役はヒース・レジャー。名演技の名高いこの役は当然のごとくアカデミー賞を受賞しています。彼自身は服用していた睡眠薬の過剰摂取によって命を落とした後でしたが。(MJもこの死に方なので、やはりアメリカ人セレブはブラピとアンジー夫妻みたいに適度に寄付したり時々ラジー賞もらったりして身も心も軽くして生きていったほうが幸せな気がする・・・・・・)で、デント検事はアーロン・エッカート。「サンキュー・スモーキング」で主演はってたなあ、というのが印象で、その時も今回の前半もそのひょうひょうとしたエリート像はペシミスティックなこの映画のよいスパイスになっていました。あと彼がトゥーフェイス役に選ばれたのはきっとアゴが割れてて「こっから二つに割ればいいっす」みたいなことがしやすかったからだと思うね(死んだ目) ヒロインは全然かわいくないから気にしない。
「世の中には金なんて目じゃないような悪党がいるんですよ」ブルース・ウェインの執事、アルフレッドは静かにそういった。「ただ世界が燃えるのを観たがるだけの人間がいるんです」
そう、ジョーカーはそういう男だ。金も女も、ましてや名誉もいらない。彼はただ、自分の生きやすいように世の中を飄々とわたっているだけだ。それはこの世の中から駆逐されてしまって久しい「理想を求める人間」というやつだ。僕たちにはそんなものはない。(否定する人はいるかもしれないけど)
僕たちの理想は、せいぜいのとこ「天職についてカネを稼いでいい女を抱いて誉れ高い人間になる」といったくらいのものだろう。人によってそこに社会的貢献とかひとかけらのスリルとかがくっつくか否か、くらいの。
ここで僕らがみんな夢がかなうとする。つまり、みんなBMWやらロールスロイスやらを乗り回し、体脂肪率は十三パーセント程度で背も高く、傍らには理想の異性が僕らにしなだれかかってくる。みんなの隣に。
クソだ。
そんな未来はクソだ。そんな未来を考えるのはせいぜい小学生までで充分だ。内容とは裏腹に貧困すぎるその想像力に、僕は絶句する。そしてその想像の主が自分自身であることを改めて認識させられるのだ。
「なんでこんなふうになっちまったんだ? ・・・・・・・その、つまりだ・・・・・・」
そうジョーカーは舌なめずりしながら叫ぶ。
お前たちはいつも下を向きながら暗い顔をしているが、見ろ、俺が来た。
笑え。
笑うんだ。
俺はお前たちよりももっと面白いことができる。だが、俺を特別なものだとは思うなよ。
お前たちだって、簡単に俺みたいになれるんだから。
なんというか、これ以上この映画の面白さを僕が表現することはできない、と久しぶりに自分の限界を感じたので、ぜひぜひこの映画は見といてくださいな。
セブンと同じくらい好きです。
なんというか、本当に人間というやつは世界にはかなく掉さす存在でしかなくて、感覚も現実も言葉も容易くそっち側に行っちゃうんだね、という作品でした。
監督はフィンチャーなんでまあフィンチャーかっこいいでおしまいでよろしいですか。
主演はマイケル・ダグラス。なんかまあちょいちょい名前を聞くのにどんな作品でてるっけーと考えたときにブラックレインしか思いつかいないのはご愛嬌。
語ることはあんまりないので・・・・・・とりあえず所感を書こうかと思ったけど、この映画を見た後では、言葉で何かをつづれるだけの言葉に対する信頼はない。
でも、確かに「長期的な鬱屈 → 逆転 → 絶望 → 復活」っていう仕組みは自己啓発セミナーそのものであり少年漫画そのものなのでそこは認めていいと思う。