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先日の文章を読んで、相当追い詰められていたんだな、ということは伝わってきたがそれ以上何も伝わってこねえなこれ。
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全ての眠れぬあなたに告ぐ。

死ね。

まあぶっちゃけてしまえばいま現在の時間が午前四時でここはとある大ホールで僕は隣に横たわるデブの高鼾の抹消もとい殺害に失敗しすごすごと撤退した先のピアノの椅子の上でこれを書いているわけだ。眠れねえ。どういうことだ。呼び出しを食らうのはいい。マグロみてえな男たちのただ中に雑魚寝させられるのも、まあ許そう。つーか赦そう。いいよもう。だがしかし、若干50名ほどの中で俺だけ眠れぬ夜(物理属性)を耐え忍ばねばならぬとは些か酷ではないか。もはやトイレには行き尽くした。汚い話、シッコもしたし糞も小粋に捻り出したし果てには同じ便器でゲロ迄吐いた。あと出していない体液と言えば血と涙と汗と精液くらいで、畢竟ションベンなんて成分的には血と涙と汗の結晶(誤用)みてえなもんだから実質俺の体はザーメン・インサイド・ア・ファッティボディということで早く死んだ方が世界が美しくなりそうな予感がします。ね。もうここまできたら集団の中でオナニーして気持ち良くなって股間を外気に晒したまま人生を抱いてフォーエヴァーなスリープモード確変に驀進するのもアリなんすかね。(虚ろな目)
ああ認めよう。
すげえシコりたい。
おちんぽみるく(平仮名書きがジャスティス)をびゅるびゅるしたい。
何を言っているか自分でも最早理解の届かぬこと言ってるがそのくらい追い詰められているとおもっていただければよろしい。ネタだと嗤うそこのあなた、もはやこの時間ではネタと現実を分かつ力線は限りなく薄いことを覚えておけ。頼むからそのくらい察せ。いま俺が封印されし死神の右目と魔王の紋章の入った左手とあと股間の愛らしきフェアリーを暴走させずに済んでいるのはひとえにiPodから流れてくるくるりのアルバムのお陰なのだ。美しいアコースティックの響きと角のない歌声だけがいまの僕を法の境界の此方側にとどまらせている。気が狂いそうだ。もはや理性ではなく、偶然が僕をここで引き止めているといっていいだろう。だから僕、おもうんすけど、やっぱり衝動的な犯罪ってあると思う。(血走った目)いまも眠れぬ夜に行き当たったばかりに自殺しそうな誰かもいるかもしれぬ、とも。
そんな全てのあなたに告ぐ。
くるりを聴こう。
人の命がすごく軽くてとても好感が持てる映画でした。
いや、これと併せて借りてきた「ゴッドファーザー」がいちいち死ぬ人間の描写が多すぎてなんかなあ、みたいな。いやマフィアものだから普通の映画と比べるとよりライトですけど、もっとこの映画みたいにすげえ適当な基準で生き残ったり死んだりしてほしいですね。まあ映画界のダークソウルとでも言いましょうか、ぱかぱか人が死ぬので人間か嫌いな人間はおすすめ。
あとは僕みたいな「軍隊のしごき萌え」とか、「拷問尋問萌え~ただし込み入った用具を使うのではなく、その辺の日用品を使った拷問~」とか、そういうフェチの人に見てほしい。後者の萌えが意味わかんねえよってひとはとりあえず007のカジノ・ロワイヤル(新しいの)でル・シッフルに金玉殴り拷問されているボンドを見てワクワクしたら大分末期とでもいっておきましょうか。あとはマスターキートンの連続ビンタ拷問とかも素敵ですよね! 何の話だ。
えー、いやまあ、はい。観てきましたけど。
何つーか『あからさまにB級すぎてみんな逆に面白く思えてくる』というところを一点集中で狙ってきてますよね、この映画。マーケティング担当の人は良くやったと思います。ええ。まあ実際みている間はふーん、って感じだったんですけど、見終わってからほぼ何も残らない、という点でかなりアレな映画だと思います。うん。なんか四千円払ったら三十分ぴったりひたすら同じテンポでチンチンしゃぶってくれるピンサロ嬢みたいな映画、とでも形容すべきでしょうか。そんなかんじ。あの映画は恐ろしく合理的なつくり(メタレベルでも)をしているので、そういうのちらつくともう楽しめるのは『映画体験』だけなんですよね。で、その『映画体験』という領域に、この「アベンジャーズ」という映画はひたすらリソースをつぎ込んでいるわけですよ。だから別に楽しめましたよ。一応。
なんか気持ちよかったなー、とりあえず可もなく不可もなく四千円ぴったし、みたいな。これは明らかにプロの犯行です。僕は正直あんまり好きじゃないですけど、『映画館』という特殊な施設を活かし切れているあたり劇場で見れてよかったな、って感じましたな。うむ。
えっと、実はというか当たり前のようにこの前のレビューから何本も映画は見ていたんですけど、いちいち記事に落とし込むのが面倒くさいので、なんかなー、とひっかかった(良くも悪くも)映画だけをここではピックアップして書いているんだよ、ということを一応ここに記しておきます。いや、誰も気にしないだろうけど。
キャストに関してはもう俺としてはホークアイ役のジェレミー・レナーで一点押しの倍々プッシュ。レナーかわいいよレナー。もうレイプ目しているレナーたんの顔面に練乳ぶちまけたい。個人的には「パニックルーム」(監督フィンチャー、ジョディ・フォスターと幼女なクリステン・スチュアートが出てくる映画。クリステンたんはこのころがぶっちぎりで一番キャワユイのでロリコンが観れば死)にでてくるチンピラ役のレナーたんがすごいよかった。次点でアイアンマン=トニー・スターク役のロバート・ダウニーJrですな。こいつが観たいがためだけに今さっきこの時間から(午前一時半)「アイアンマン」かりてきましたもん。「シャーロック・ホームズ」のホームズ役の方が正直評価されてしかるべきだとは思うんですけどね。この人が出てくると一気に画面が締まるからいいと思います。(立ち振る舞いとか愛嬌あるのに隙はねーという)あん? スカーレット・ヨハンソン? ほっとけ!!

サブカルチャーというのは常に敗北している文化だ。
というのはネット上の誰かの言葉だったけれど、まあおおむねそのとおりであっている。サブカルチャーがいくら金をかき集めようとも(見よ、もはや小説を大きく上回る規模の漫画・アニメ・ラノベ産業を)それは文化の敗北でしかない。本来は自らのうちにある何かを表現しようとして、表現して、結果的にそれが共感を呼ぶ、というのが文化の形であって、そのような志もなくすげーだらしねー方向に舵を切り、おっぱいとおぱんちゅとふとももにまみれた漫画文明はやはり大抵の場合すげーだらしねーのである。たしかに男はおっぱいもおぱんちゅもふともももその先にあるマンホール(隠語)も大好きである。俺も好きだ。ラヴ。だから俺は漫画のパンツを発見しては作者に感謝し三跪九叩で報いるのである。だから俺は萌え系漫画をばつの悪い顔をして雑誌に挟んで買うのである。そうやって、サブカルチャーは『消費』されていく。サブカルチャーをコモディティとして評価することは可能だ。だけど、それ以上の領域で評価することはじつか結構難しかったりする。本来無二だったはずの表現されるべき「なにか」ではない、消費されるべき快楽が。この辺は東浩紀の『動物化するポストモダン』とか大塚英志の『物語消費論』あたりをよんでくだちい。
それはもはや(自分の何かの)「表現」としては確かに市場経済に対する敗北であるといえるだろう。逆説的に言えばいくら男の桃色大戦で画面が埋まっていようとも確かにサブカルチャーの価値は市場によって保障されているともいえるだろう。
そのような中で僕たちはどのようにサブカルチャーを評価するべきか、という話になったとき、上記のネット論者いわく、「敗北している中でも見受けられる、『表現』を評価するべき」ということだった。具体例を出すとするならば、それは大槻ケンヂのエッセイ集「行きそでいかないとこいこう」の中におさめられていた「ホモ映画館を見に行く」の章を出すべきだろう。ホモ映画はホモ映画で、やはり市場が小さいのでろくな資金もないうえにホモセックスを導入しなくてはならない、という縛りが存在する。しかし、と大槻はここで分析する。それさえクリアすれば、あとは監督が好きなように表現できるということを、そして導き出す。
大槻は何本かホモ映画を鑑賞し、その中でたとえホモ映画という縛りであろうとも必死で何かを表現しようとする監督の意思に感銘を受ける記述がされている。それはまさに先述したような「敗北の中の表現を評価すること」といえるだろう。
さて、長くなったが「アベンジャーズ」の話に戻ろう。
この映画は、じつはひたすら凡庸である。つーかそれ以下である。少なくともぼくはそう思う。確かに画面を覆い尽くす「質量」のようなものは多かった、とは思う。しかしそれはただ単にCGで画面を埋めただけであり、たとえ貧相であろうと感覚を「はっ」と揺らされるようなカットのひとつも見られなかったことに対して、僕はこの映画を擁護できない。ひたすら画面を埋め続けるCGには、やはりリドリー・スコットやスピルバーグのような「せかい」を切り取るまなざしが見受けられなかったように思う。個人的には「ブラッド・ダイヤモンド」でレオ様演じる南アフリカ人傭兵が最後に見せる景色のような、物語と絡まって「はっ」と息をのむようなカットが一つもなかったことが残念だった。あとは「グラディエーター」での変質狂的なまでのディティールとかも。
しかし話が面白いかというと、まあお話と呼べるレベルの伏線もなく、ただただヒーロー暴れてるだけ、みたいな。仕方があるまい、とはおもうけれど。そういうコンセプトの映画だし。それゆえにロキなんてそもそも「いてもいなくてもいーけど、まー一応敵がおらんと話にならんしだしとくわ、がはは」みたいなとこから出てきたキャラクターであり、そもそも敵の不在の存在を表す記号のようなものに過ぎない。だからあんなにてきとーにやっつけられる。「ダークナイト」のジョーカーのような食い応えのある敵は、この映画に原理的に存在しえないのです。
そしてこの映画をこんなに「キャラ萌え」偏重にしてしまった原因……それはやはり市場経済であり、マーケティングであるといえるでしょう。だってこの映画、映画の形をした宣伝ビデオなんだもの。これから出るであろうマーヴェル系ヒーロー映画を僕たちに消費させるための、宣伝。事実僕も「アイアンマン」借りてきちゃったしね。おっきな番宣ポスターがあって、じゃあそこに何が映ってるかってキャラしかないことは誰だってわかりきっていることです。消費による消費の促進という、なんか人間の業って深いですね、みたいな話になっちゃいました。
敵もいない地平に、キャラだけがぼつぼつといて、僕らに消費されていく。
それは果てしなく荒涼として、しかしだらしない楽園の姿だとおもうのですけれど、皆さんはどうおもいます?

観たよー。
とはいえど俺はといえばいまちょうど見ている最中の500日のサマーがおもしろすぎてその前に見たこの映画が脳みそから吹っ飛びそうだったのであわてて感想を書いているところです。

面倒くさいのでネタバレ上等の箇条書きでします。

1、ジョディ・フォスターがうっとうしい

以上。
いや、まじでこれに尽きるんすよ。もしかしたらレクター役のアンソニー・ホプキンスの名演技とかいろいろ押すところがあるんでしょうけど、少なくともぼくはこの映画観ながらずっと、
「こいつ、うぜえ立ち振る舞いするよなあ……はやく殺人鬼にとっちめられねえかなあ……」
って思ってました!サーセン!
『フライトプラン』の時も思ったんですけど、なんでこの人こんなに「戦ってるダメ女」の演技がうまいんですかね? ポイントとしてはダメ女ってとこで、これはポイント高いですよ。なんてったってダメな男は役立たずでお役御免で済みますが、ダメ女がキャリアに驀進し始めるとそうはいきません。血の雨が降ります。おもに周囲に。これは一般論ではなく、映画のセオリーとしてそうなってしまうのです。ほら、男が孤軍奮闘するとセガールだけど女はセガールになれないじゃないですか。ねえ。
アンソニー・ホプキンスに関しては、なんか元祖マジキチなんだろうけど元祖が最高とは限らんよな、とダークナイトを思い出してました。後はなんだろうか……007のワールド~とか?
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