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うーんと、観てみたお。
火曜日は暇なんでブァップァーと車転がして近くのTジョイ大泉へ。何しろこの映画、Tジョイグループと提携しているらしくTジョイでプッシュされまくってたんで、この前前売り券を買ってきてたんすよ。(どうでもいい)
まあそれ以外にもパナソニックとコラボしたり全国の有名ラーメン店とコラボしたりスタッフサービスとコラボしたり鉄道会社とコラボしたりペプシとコラボしたりエトセトラエトセトラ。まあマネタイズの面でいろいろしてて、これもひとえに神山監督率いるSTEAVE N' STEAVENの方針なんでしょうな。(実際、そのような話も聞くし、この前は『東のエデン』の隠れキャラを使ってドコモとコラボしてたし)
とりあえず一通りのCMは観てきたんですけど、んー、僕個人としては前回の東のエデンの外務省キャラのビデオくらい長いのが好きですね。ただ、CMとしては、ひいてはマネタイズとしては成功しているのではないでしょうか。それにしてもペプシは矢鱈とアニメ作品とコラボしたがりますな。オタク業界の中におけるドクペのポジションでも狙ってるんでしょうか。謎ですわな。ま、それにしても日本の映画、特にアニメ映画というものがもはや映画館という切り離された世界の存在ではなく、日常の延長としての映画へとその方向性をシフトしているのがなんとなくわかりますな。生活の中にパッケージとして滑り込むことを日本のアニメは選んだ、あるいは選ぶ可能性がある、というのは覚えておいて損ではないと思います。たしかにDVDはうれねーしテレビ局からは金を抜かれるしでマネタイズする→ひいてはアニメーターの生活を守っていく、という点ではこのような広告は必要なのだろうな、と思います。まあ言い換えてみていかに僕らがアニメ業界を愛しているとのたまいながら食い荒らしているか、つまりは作り手と受け取り手の信頼関係の敗北の証左でもありますが、そんなのはCDだってそうだし、時代の流れなんじゃないでしょうか。ただ残念なのは、そして喜ばしいのは、僕らがいま、ここで生活の一部と密接につながった状態でこの映画を視れるのと同じように、将来の誰かはこの作品を体験できない恐れがある、ということです。それは僕らにとって残念であり、喜ばしく、そして将来の誰かにとってもまた、残念であり、喜ばしいことだといえるのではないでしょうか。

(ここからネタバレあります)
正直、ふしぎな映画だった。
誰の話なのかさっぱり分からない。島村丈を巡る話なのか、あるいは神を巡る話なのか、それともあるいは安全保障をめぐる話だったのだろうか。オカルトとファンタジーとミステリーとSFがごっちゃになってまじりあって、最後に島村丈は叫ぶ。
「答えてくれ! 神よ!」
ふしぎすぎて僕にはうまく理解ができない。神は果たして答えたのか。(島村丈たちの帰還を以ってして)というか、答えるべきだったのか、ということすら僕はうまく言葉に出来ない。
いろいろと考えることは会った。
たとえば中国人のキャラだけがあからさまにギャグテイストであってよかったのか(それは石ノ森章太郎の原作通り)
、それはアメリカ~世界を見つめるまなざしの許容範囲に入るべきなのか。あるいはイスラエル陰謀論をぶちまけたりNSA陰謀論をぶちまけてよかったのか。はたまた「彼の声」の正体が最後ファンタジーの流儀で終わらせてしまった力技とか、あるいは3D技術の使い方とか、あるいはフルCGとセルアニメという表現の差異について、などなどなどなど。

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 あたらしいほうの!
 まあツタヤの発掘企画で古い方もDVD化されていたのですが『ロック・ストック・トゥー・スモーキング・バレルズ』のころからステイサムさんのファンなおいらは「ステイサムが出ていない映画とか観る価値ねえよ!」と新しい方に全ツッパしていきましたとさ。いやそんなことないんだけどね?
 ステイサムが出てなくともジョセフ・ゴードン・レヴィットとかジャレット・レトとかデンゼル・ワシントンとかロバート・レッドフォードとかレオナルド・ディカプリオとか出てれば観るよ? まあ今回はやっぱりホラ、まあステイサムさん一択でステイサムたんの胸毛を画面越しにペロペロするだけでいいっていうかやっぱり腹筋の上にうっすらついている脂肪をガン観したいっていうか髪の毛の薄い頭に股間の薄汚いオートマトンをエレクチオンしたいっていうかドゥフフとか思いつつ帰ってきて下半身をジーパンと社会規範から解き放ったあとでティッシュ準備してDVDを再生してみたところ、なんかドナルド・サザーランドがいておいらはそれだけで前後左右上下から縦横無尽に失禁しながら幸せな気分になりましたとさ。もうどうしようもねえな!(いい笑顔) それにしても、ドナルド・サザーランドですよ。ええ。『M★A★S★H』観た人なら誰しもがあこがれるホークアイ大尉の役者さんですよ。観てないやつは今すぐツタヤに走れっていうくらいの映画ですよ、マジ。『ランボー』なんか観ている場合じゃねえ!と割と暴言なんですがここにマジレスしておきます。あ、あと★が入っているのが正式名称なんで、そこんとこ夜露死苦。
 まあステイサムたんも負けず劣らずいいんですけどね! なんといっても水泳選手だったもんでしっかりと筋肉がついているうえに脂肪ものっかってるあたりスンばらすぃーですよ。略してばらすぃー。いちごましまろ。美羽ちゃんのちょっとつっぱったロリロリおみ足を臭くなるまでペロペロしたいくらい、ステイサムさんの頭の天辺の地肌もレロレロしたいもんですわ。ええ。(血走った眼)デビュー当時から一貫して禿げキャラを貫き通すその一途さが素敵です。……あー、でも「リボルバー」の主役の時は禿げてなかったっけ。うん。なんかごめん。
 ……ええと、すいませんちょっと酒が入っているのでネタと下ネタ多めですマジすいません。でもいちごましまろは全巻もってるんで許してください。アナちゃんのおしりにほっぺたスリスリしながらゲルマンロリっ娘の屁の匂いかぎたいもんですよ!(マジキチ)

(相変わらず以下でネタバレします)
 世に殺し屋映画というのはいくらでもございまして、その上殺し屋というのがどこまでを指定する単語なのだろうか、という議論も範疇に入れますならば、コレ、警察の過激な部隊を描いた『S・W・A・T』も『エリート・スクワッド』も『フェイク・シティ』も『トレーニング・デイ』も『マイアミ・バイス』も『バッドボーイズ』も『ディパーテッド』も殺し屋映画となるのではないか。(映画のチョイスにちょいちょい趣味が見え隠れしてますが)否、軍隊物の映画というのは実はすべてが殺し屋映画といっても過言ではないのだろうか、という命題が見え隠れします。
 しかし、殺し屋、という言葉を真摯に考えるとき、私たちはきっと『純粋に営利システムとしての殺しを行う人間』、つまり職業軍人ならぬ職業殺人を僕たちはきっと殺し屋と呼びならわし、畏怖し、憧れていくのでしょう。それは私たちが熟練した陶芸家や書道家、メカニックにたいして抱く念と同種のものである、そうも考えます。しかし、それ以上に僕がこの映画の『メカニック』―――殺し屋、に抱く畏怖の感情は大きく、異質なものである、そうもかんがえます。なぜか。
 それは、殺し屋、という仕事が、少なくとも普通の世界に生きる僕には見えない職業だからでしょう。おそらくこの映画を作った人間も実際に『殺し屋』の仕事を見たわけではなかったはずです……たぶん。それは所謂ファンタジーの世界を手探りで作るのと同じ作業であり、想像力と検証力の両輪がうまく回転しなければ無しえない高度な試みであるといえるでしょう。それゆえに、殺し屋映画では過剰な演出がされがちなのですが、この映画ではそういうことをさらっと流して撮っていくあたりがとても好感が持てました。『ボーン・アイデンティティー』シリーズもさらっと撮る技術は高かったんですけれど、アレはグリーングラス監督お得意の「カットを矢鱈めったら割る」という技法のせいでシーンが細切れになっているせいでそう見えてくる、という話なので、この『メカニック』は、架空の職業を日常をバックボーンにしてつなぎ目がわからないように描く、というところではかなり美しい映画なのではないだろうか、と思います。少なくとも、殺し屋にありがちな「日常と仕事で生活がくっきり区別されている」という演出は、仕事をしている方も学生の方も分かると思いますが、結構嘘くさい、みたいなところがあるじゃないですか。ステイサム演じる殺し屋は、日常の中から殺人の下準備をする、という点でとても「らしい」暗殺者だった、といえるでしょう。
 というわけで、メカニック、そういう映画でした。
 おちも非常に洗練されていて、やっぱり映画というのはキャラのたっている人間が三人いればそれですべて満ち足りるのだなあ、とつくづく納得させられました。あえてここでは最後のシーンについては書きたくないので書きませんが、いちいち伏線を丁寧に、しかし本当にさりげなく描き切ったうえであのオチまで持っていくという脚本の素晴らしさに、やはりいい映画はいつまでたってもリメイクしてもいい映画なのだなあ、と感心させられることしきりです。あとホモシーンもエロくてよかった、とショタコンの弟が言っていたのできっとそうなのでしょう(白目)。

観てまいったでゴンス。
とりあえず続編があるということで、まあそれも観に行くしかないよね……うん……
面白かったです。面白かったんですけど、それは「続編がある映画としての面白さ」なんですよねえ……こういうマーケティングにつられちゃう感じの面白さは、このまえの『アベンジャーズ』もそうなんですけど、ちょっとためらいを感じてしまうところがあります。
たぶんアニメ版を短くまとめるのには無理があっての連作なんでしょうけど、僕も二時間とそれなりの金を投資している身としては結果的に無理に金を切り取られている気分がしてなりません。(言い方悪いな)映画の中身もそういうマーケティングとかを少なくとも主人公のおじさんはビンビンdisしているので、よもやおじさんの言葉は製作者側からしても薄っぺらいんでしょうか、とふと疑問に思ってしまいました。あるいはそれすらメタ的ななにかを見落としているだけなのか。こういうどーでもよろしいこと考えているからまっすぐに映画が観れない体質に成り果ててしまったのでしょうかね。なるべく製作者の真摯な意向による結果であると信じたいものです。(まあそもそも続編ってそこからの客の間口が狭くなるのでマーケティングでたたき出す答えか、といわれると違う気がしないでもないですし)
というか、どうしてアニメはこうも続編を作りたがるんですかね。ベルセルクしかり東のエデンしかり空の境界しかり。空の境界なんて七部作ですよ。ロード・オブ・ザ・リングだってあれだけ詰め込んでおいて三部作だってのに。どうも僕としてはその辺が疑問です。うーん、『映画』をつくろうとしていく(これは押井守アニメ映画作品群が特にこれに当てはまると思う)というスタンスが僕にとっての「真摯な映画」をウェルメイドな作品目指して撮っていく人のスタンスなんですけれども、たぶんこの映画を作った人は「劇場版」のアニメを作る感覚でつくったんであろうな、とおもうと納得できました。そういえば「けいおん!」の劇場版もそんな感じだったしさあ。(うろ覚え)
あ、あとマーケティングつながりで行くと、普段放映されているTVアニメでは有効に働くであろうヒーローのスポンサー広告が映画版では割と面白く感じられなかったのですが、これは簡単な話で、私(たち、かどうかまではしらんが)は金を払っているのですよ。ただで観れるテレビとは違うわけです。映画空間、という時間に投資しているわけで、本来テレビでのフリーの代償の擬制として私たちに働く広告の錯覚、あるいはギミックが映画版では通用しにくいというだけのはなし――――あるいは、タイバニをずっと観ていたので慣れてしまった、目新しさがなくなった、ということかもしれません。もし慣れたのだとしたら、タイバニ、というアニメはとてもすごい地点に到達していたりすると思うのですが。なんにせよとても面白かったので、観てみていいんじゃないでしょうか。

……それにしても俺、なんでこんなにいちいち観た映画に対してケチをつけるような性根になっちゃったんだろうか……最近割とマジでなやんでます。
人の命がすごく軽くてとても好感が持てる映画でした。
いや、これと併せて借りてきた「ゴッドファーザー」がいちいち死ぬ人間の描写が多すぎてなんかなあ、みたいな。いやマフィアものだから普通の映画と比べるとよりライトですけど、もっとこの映画みたいにすげえ適当な基準で生き残ったり死んだりしてほしいですね。まあ映画界のダークソウルとでも言いましょうか、ぱかぱか人が死ぬので人間か嫌いな人間はおすすめ。
あとは僕みたいな「軍隊のしごき萌え」とか、「拷問尋問萌え~ただし込み入った用具を使うのではなく、その辺の日用品を使った拷問~」とか、そういうフェチの人に見てほしい。後者の萌えが意味わかんねえよってひとはとりあえず007のカジノ・ロワイヤル(新しいの)でル・シッフルに金玉殴り拷問されているボンドを見てワクワクしたら大分末期とでもいっておきましょうか。あとはマスターキートンの連続ビンタ拷問とかも素敵ですよね! 何の話だ。
えー、いやまあ、はい。観てきましたけど。
何つーか『あからさまにB級すぎてみんな逆に面白く思えてくる』というところを一点集中で狙ってきてますよね、この映画。マーケティング担当の人は良くやったと思います。ええ。まあ実際みている間はふーん、って感じだったんですけど、見終わってからほぼ何も残らない、という点でかなりアレな映画だと思います。うん。なんか四千円払ったら三十分ぴったりひたすら同じテンポでチンチンしゃぶってくれるピンサロ嬢みたいな映画、とでも形容すべきでしょうか。そんなかんじ。あの映画は恐ろしく合理的なつくり(メタレベルでも)をしているので、そういうのちらつくともう楽しめるのは『映画体験』だけなんですよね。で、その『映画体験』という領域に、この「アベンジャーズ」という映画はひたすらリソースをつぎ込んでいるわけですよ。だから別に楽しめましたよ。一応。
なんか気持ちよかったなー、とりあえず可もなく不可もなく四千円ぴったし、みたいな。これは明らかにプロの犯行です。僕は正直あんまり好きじゃないですけど、『映画館』という特殊な施設を活かし切れているあたり劇場で見れてよかったな、って感じましたな。うむ。
えっと、実はというか当たり前のようにこの前のレビューから何本も映画は見ていたんですけど、いちいち記事に落とし込むのが面倒くさいので、なんかなー、とひっかかった(良くも悪くも)映画だけをここではピックアップして書いているんだよ、ということを一応ここに記しておきます。いや、誰も気にしないだろうけど。
キャストに関してはもう俺としてはホークアイ役のジェレミー・レナーで一点押しの倍々プッシュ。レナーかわいいよレナー。もうレイプ目しているレナーたんの顔面に練乳ぶちまけたい。個人的には「パニックルーム」(監督フィンチャー、ジョディ・フォスターと幼女なクリステン・スチュアートが出てくる映画。クリステンたんはこのころがぶっちぎりで一番キャワユイのでロリコンが観れば死)にでてくるチンピラ役のレナーたんがすごいよかった。次点でアイアンマン=トニー・スターク役のロバート・ダウニーJrですな。こいつが観たいがためだけに今さっきこの時間から(午前一時半)「アイアンマン」かりてきましたもん。「シャーロック・ホームズ」のホームズ役の方が正直評価されてしかるべきだとは思うんですけどね。この人が出てくると一気に画面が締まるからいいと思います。(立ち振る舞いとか愛嬌あるのに隙はねーという)あん? スカーレット・ヨハンソン? ほっとけ!!

サブカルチャーというのは常に敗北している文化だ。
というのはネット上の誰かの言葉だったけれど、まあおおむねそのとおりであっている。サブカルチャーがいくら金をかき集めようとも(見よ、もはや小説を大きく上回る規模の漫画・アニメ・ラノベ産業を)それは文化の敗北でしかない。本来は自らのうちにある何かを表現しようとして、表現して、結果的にそれが共感を呼ぶ、というのが文化の形であって、そのような志もなくすげーだらしねー方向に舵を切り、おっぱいとおぱんちゅとふとももにまみれた漫画文明はやはり大抵の場合すげーだらしねーのである。たしかに男はおっぱいもおぱんちゅもふともももその先にあるマンホール(隠語)も大好きである。俺も好きだ。ラヴ。だから俺は漫画のパンツを発見しては作者に感謝し三跪九叩で報いるのである。だから俺は萌え系漫画をばつの悪い顔をして雑誌に挟んで買うのである。そうやって、サブカルチャーは『消費』されていく。サブカルチャーをコモディティとして評価することは可能だ。だけど、それ以上の領域で評価することはじつか結構難しかったりする。本来無二だったはずの表現されるべき「なにか」ではない、消費されるべき快楽が。この辺は東浩紀の『動物化するポストモダン』とか大塚英志の『物語消費論』あたりをよんでくだちい。
それはもはや(自分の何かの)「表現」としては確かに市場経済に対する敗北であるといえるだろう。逆説的に言えばいくら男の桃色大戦で画面が埋まっていようとも確かにサブカルチャーの価値は市場によって保障されているともいえるだろう。
そのような中で僕たちはどのようにサブカルチャーを評価するべきか、という話になったとき、上記のネット論者いわく、「敗北している中でも見受けられる、『表現』を評価するべき」ということだった。具体例を出すとするならば、それは大槻ケンヂのエッセイ集「行きそでいかないとこいこう」の中におさめられていた「ホモ映画館を見に行く」の章を出すべきだろう。ホモ映画はホモ映画で、やはり市場が小さいのでろくな資金もないうえにホモセックスを導入しなくてはならない、という縛りが存在する。しかし、と大槻はここで分析する。それさえクリアすれば、あとは監督が好きなように表現できるということを、そして導き出す。
大槻は何本かホモ映画を鑑賞し、その中でたとえホモ映画という縛りであろうとも必死で何かを表現しようとする監督の意思に感銘を受ける記述がされている。それはまさに先述したような「敗北の中の表現を評価すること」といえるだろう。
さて、長くなったが「アベンジャーズ」の話に戻ろう。
この映画は、じつはひたすら凡庸である。つーかそれ以下である。少なくともぼくはそう思う。確かに画面を覆い尽くす「質量」のようなものは多かった、とは思う。しかしそれはただ単にCGで画面を埋めただけであり、たとえ貧相であろうと感覚を「はっ」と揺らされるようなカットのひとつも見られなかったことに対して、僕はこの映画を擁護できない。ひたすら画面を埋め続けるCGには、やはりリドリー・スコットやスピルバーグのような「せかい」を切り取るまなざしが見受けられなかったように思う。個人的には「ブラッド・ダイヤモンド」でレオ様演じる南アフリカ人傭兵が最後に見せる景色のような、物語と絡まって「はっ」と息をのむようなカットが一つもなかったことが残念だった。あとは「グラディエーター」での変質狂的なまでのディティールとかも。
しかし話が面白いかというと、まあお話と呼べるレベルの伏線もなく、ただただヒーロー暴れてるだけ、みたいな。仕方があるまい、とはおもうけれど。そういうコンセプトの映画だし。それゆえにロキなんてそもそも「いてもいなくてもいーけど、まー一応敵がおらんと話にならんしだしとくわ、がはは」みたいなとこから出てきたキャラクターであり、そもそも敵の不在の存在を表す記号のようなものに過ぎない。だからあんなにてきとーにやっつけられる。「ダークナイト」のジョーカーのような食い応えのある敵は、この映画に原理的に存在しえないのです。
そしてこの映画をこんなに「キャラ萌え」偏重にしてしまった原因……それはやはり市場経済であり、マーケティングであるといえるでしょう。だってこの映画、映画の形をした宣伝ビデオなんだもの。これから出るであろうマーヴェル系ヒーロー映画を僕たちに消費させるための、宣伝。事実僕も「アイアンマン」借りてきちゃったしね。おっきな番宣ポスターがあって、じゃあそこに何が映ってるかってキャラしかないことは誰だってわかりきっていることです。消費による消費の促進という、なんか人間の業って深いですね、みたいな話になっちゃいました。
敵もいない地平に、キャラだけがぼつぼつといて、僕らに消費されていく。
それは果てしなく荒涼として、しかしだらしない楽園の姿だとおもうのですけれど、皆さんはどうおもいます?

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